Something So Right

大洗在住のSEなおっさんが趣味の楽器いじりや模型製作、万年筆いじり、サイクリングその他について書いています。

大嫌いだった姉が死んだ

大嫌いだった姉が死んだそうです。享年53歳。

 

先週、親が会ったばかりだったのに、今朝、冷たくなっていたようで。大人になって発症した癲癇以外、これといって病気もしていなかったのに、心臓突然死で逝きました。

 

まぁ、苦しまずに逝けたことは本人にとっても、老いた両親にとっても良かったのではないかと思います。親には「最後の親孝行だよ」と言っておきました。

 

私はと言うと、電話口で親が号泣するのがとてつもなく辛かっただけで、姉の死に関しては特に思うことはないです。涙も出ません。大嫌いで心の底から憎んでいた割に、嬉しさもないですね。

幼少時代

私には兄がいて、早くに亡くなりました。それもあって姉が生まれた時は両親はもちろん、祖父母も大喜びだったそうです。そして、私が生まれた時は男だからまた兄のようになるかも、という理由で喜ばれなかったんだとか。不安だったんでしょうね。

 

姉の可愛がられ方は、日本舞踊など習い事の数々、節目節目の祝い事の規模(レストランを貸し切ったりしていた)から羨ましいな~と思ってました。私は何もなしでしたからね。面白いのは、当時撮影した8ミリビデオの映像。両親は私を撮ろうとしているのに、姉が私を突き飛ばしたりしてるんですね。聞けば、赤ん坊の頃に私の顔にトイレのスリッパを置いたりしていたんだとか。上の子あるあるってやつかも?

 

学生時代

小学校に入るくらいになると、姉は憎悪の対象になってました。教科書とかを何故か姉が盗んだり隠すんですね。犯人はバレバレで証拠があっても姉は決して認めず、謝らない。これは死ぬまで変わりませんでした。おかげで、机などにトラップをしかけるのが得意に。ちなみに姉の盗みはだんだんエスカレートして、施設に入る前は財布から金やカードを盗むようになってました。

 

思い出深いのは、姉が入っていた合唱団に私が入らされたこと。「◯◯の姉」という見られ方をされるのは、性格的に受け入れられませんでした。常に比較され、両親や合唱団関係者からの「姉に比べると弟はダメ」という評価に姉はますます付け上がり、家にいるのが嫌で嫌で仕方がなかった記憶があります。高校を出るまでずっとそんな感じ。

 

姉は姉で、学校の勉強がダメで、親が雇った家庭教師が「弟さんを教えたい」と言ったりしたから、私に対して劣等感を抱いていて、それが嫌がらせの原因になったのかもしれない、と今になって思います。

 

社会人時代

私が大学に入ってすぐ、姉は結婚しました。寿司職人と結婚させて家を継がせる親の野望があっさり潰えたのと、結婚相手がしょうもない人間だったことで両親は落ち込んでいました。それまでの人生で最高の思い出が、大金が入った財布を拾ってそれで豪遊したことって奴でしたからね。

 

私が一人暮らしをする前に姉が嫁いだことで平和が訪れたかというと、全然そうではなく、姉の旦那が出張する度に実家に戻ってきたり、姉の勤め先の病院で健康診断をさせられて、嘘の結果を両親に吹き込んで、それが会社に伝わって重要なプロジェクトから私が外される~なんてイベントが定期的に起きていました。

 

一番思い出深いのは、子供ができなかった姉が犬を飼い始めて、私が使ってた茶碗にドッグフードを入れて犬に食べさせてたことかなぁ。その犬が死んだ後、姉が、父が営む寿司店の売上を持ち逃げしたことで姉と疎遠になり、しばしの平穏が訪れたのでした。

 

病んだ姉との日々

ある日、家に電話がかかってきたんですよ。出てみたら、最初から罵られまくって、さすがに私もカチンと来て、まず名乗れと言うと、姉の知り合いとのことでした。家族のくせに姉を助けないのか~と言われ、「いやいや、家の金を持ち逃げしてから音信不通なんだっつーの」と伝えると、「とにかく来い」と。

 

仕方なく母と埼玉県の某所に行くと、何故か姉が住んでいたマンションではなく平屋の一軒家に連れて行かれました。そこは電気もガスも水道も止められたゴミ屋敷で、姉はそこで犬2匹と暮らしていました。あの犬達は本当にかわいそうだった。

 

役所や警察、近くの病院に聞いてわかったのは、ペットロスが原因で姉が精神を病み、手に負えなくなった姉の旦那は借りた家を座敷牢として使っていた・・・ということ。久々に見た姉は、即身仏みたいに痩せてました。収入もなく水道も止められていたので万引きを繰り返し、付近のスーパーやコンビニは出禁、精神病薬目当てで掛け持ちしていた病院の治療費は踏み倒し、薬局から薬を盗んだとかで要注意人物になってました。姉の旦那が保険料を払っていなかったんで、とんでもない金額になってました。

 

全額、私が払いましたよ・・・orz でないと診察もしてもらえなくて。

 

ちなみに姉の旦那はマンションで悠々自適な暮らしをしていました。(笑) 役所の人間からは完全にマークされていて、姉が施設に入った後、散歩がてら実家に行ったら更地になってました。南無~

 

仕方なく、私は家に姉を引き取って、親と姉の面倒をみることにしました。あの頃は、まさに地獄でした。飢えた状態が続いていたからか、食事を与えた直後でも誰かが食事をしているのを見ると暴れ出し、油断すると冷蔵庫の中は空に。常に監視しなければならないので父の寿司店は休業することになりました。ちなみに、姉の分だけで毎月の食費は16万以上かかってました。

 

あと、薬を欲しがってよく暴れてましたね。スイッチが入るともう大変でした。試しにラムネやサプリメントを与えると、薬だと思いこんでおとなしくなりました。そこまで馬鹿になるのか?とオーバードーズの恐ろしさを痛感しました。その他は、水を出しっぱなしにしてあちこち水浸しにしたり、幼児でもやらないような悪戯を頻繁に繰り返してました。

 

そんな生活が長続きするはずもなく、ある日、とうとう父が倒れました。元々、脳梗塞心筋梗塞を患ってましたからね。私もかなり精神的に荒んで、同僚たちには迷惑をかけていました。暇さえあれば、合法的に姉を殺す方法を考えてました。両親も姉との心中を考えていたそうです。

 

父が倒れた後に、姉を役所から紹介された精神病院に入院させました。一時金で25万くらい払わせられたんだっけかな。そして、父が退院した日に、新宿からタクシーで父と一緒に帰る途中、精神病院から「受け入れ拒否する。急いで迎えに来い」と連絡が。父を寝かせた後、慌てて練馬の某病院まで行くと、何故か3時間待たされて、よくわからない理由で姉は退院になりました。Googleの口コミで低評価なだけのことはあります。

 

究極の選択でしたね。親を選ぶか、姉を選ぶか。

 

姉を連れて帰ったら、破滅しかありません。私はともかく、両親は限界を迎えていました。そこで、私は、電気もガスも水道も止められた平屋に姉を押し込んで、姉を置き去りにしました。役所の人間からは当然、盛大に叱られました。でも、私にとっては両親の方が大事でした。どれだけ罵られようと、どれだけ詰られようと、何を言われようと、私は両親を守りたかったんです。

 

「もう面倒は見きれないから置き去りにした。俺がそう決めた。二度と家には入れない」と両親に伝えた時は、何も言われませんでした。大嫌いな人間とはいえ、正直、辛かったです。

 

施設へ

姉を置き去りにした帰りに、役所に連絡を入れつつ、私は知り合いの議員に相談をしました。議員って凄いんですよ。相談してすぐに大宮の病院に姉は連れて行かれて、診察の結果、精神障害者2級と診断され、そのまま施設へ。その間、何故か私が姉の離婚届を出すなんてこともありました。

 

それから何度か施設は変わりましたが、姉は穏やかな日々を送っていたようです。テレビがほしいとかベッドがほしいとか言われる度に私の貯金は減りましたけど、一緒に暮らしていた頃の苦労を考えればね。

 

施設に入れて以降、私は姉とは一切会わず、電話で話したいと言われても断ってました。それくらい、嫌でした。心底、嫌でした。両親は月に2回くらい会いに行っていたかな? 先週の土曜日にも会いに行っていました。何度か両親と姉には金を渡して旅行にも行かせました。

 

まぁ、精神薬や市販薬の飲み過ぎで脳に深刻なダメージを負い、完治は不可能、自力で日常生活を送ることも不可能と言われてましたから、このタイミングで苦しまずに姉が逝ったことは、姉にとっても、両親にとっても良かったと思います。

 

私は、姉が原因で結婚を諦めたり、会社も何度か辞める羽目になったり、3桁万円の出費もあったりで、正直、言葉にできないくらいの憎悪がありましたよ。自分の性格の無駄に苛烈な部分は、間違いなく姉の影響です。

 

姉がいなかったら、姉がまともだったら、まったく違った、もっと良い人生を送れていたかもしれません。それでも、今までの人生も、今の暮らしもそう悪いものではない、と思えるくらいの気持ちで、今はいます。

 

落ち着いたら、お世話になった人たちに報告がてらお礼をしにいってこようと思います。